自分史

近況・その4 (2003年12月)

親父が死んだ。

 2003/9/27の午後だった。

 その日、母屋の方へ顔を出すと、本当はお彼岸中に行きたかった親戚の家に彼岸明けになってしまったけど今日、行くという。

 彼岸中に付き合えなかったオレはその日も、「今日は高円寺でこの本(パンタとレイニンの反戦放浪記)のサイン会なんだよ。一緒に行けないや・・、暗くならないうちに(親父は目を手術した後、夜がまったくダメになった)明るいうちに帰って来いよ」と答えると、「あぁ、じゃその本は後でゆっくり読ませてもらうよ」と言った親父の言葉が最後の会話だった。

 高円寺の文庫センターで行われていたサイン会の途中で連絡が入ったのだが、これが終わらないことにはどうにも動きが取れない。連絡によると、トラックと正面衝突し、親父は即死、同乗のおふくろは重体で現在手術中だという。

 サイン会が終わり、二次会はパスさせてもらって渋滞の中を家へ車を向かわせた。

 病院へ一直線に行くべきなのであろうが、親父やおふくろの知人、親戚などに電話しまくらねばなるまいし、となると住所録や携帯の充電器も必要になってくるだろうという考えからであった。

 途中、すでに駆けつけてる親戚縁者から絶え間なく携帯に手術の経過報告が入り、ひょっとしたら足の切断になってしまうかもしれないとのこと。

 渋滞の中でハンドルを握りながら、あんなに仲の良かったふたりだけに一緒に逝っちゃってくれてもいいのかな、などと不謹慎な想いが頭をよぎったりもしていた。

 病院へ着き、親戚が集まる中、手術室の前で待っていると、ほぼ7時間の手術を終えて、昏睡状態のおふくろが、何か悪夢でも見ているのであろうか首を激しく左右に振りながら運び出されてきた。

 手術前に輸血の許可書には自分でサインしたらしいし、7時間の手術を敢行してくれた外科の先生にも感謝したりないくらいだが、その大手術に耐えたおふくろもスゴイと思った。

 四肢骨折、とくに右大腿骨の開放骨折のせいで悪くすれば切断と聞かされていたのだが、エアバッグのおかげで内臓および頭部にダメージはさほどなく結果的にそれが命を救ってくれたのだった。

 ICU(集中治療室)の前で手術の報告を受けたのだが、右大腿骨は状態がひどかったので洗浄だけにしておき、また再手術をしますとのこと。その時もし感染が発覚した場合、手術は中止し、傷口は閉じ、その状態が収まった時に再度、また手術することにしますと言われ、最後に念を押すように、その場合、その感染状態が広がっていた場合、切断という結論を下さねばなりませんと言われた。

 手術報告を受けた後、その足で今度は親父の遺体を安置してある警察署に赴き、遺留品などを受け取り、いくつかの書類に書き込んで、親父がセンターラインオーバーし、対向してきた8トンの大型トラックと正面衝突したと報告を受けた。

 これまた何と言われても致し方ないが、親父の死などよりも、親父のミス(原因を探っても憶測にしかならないのでやめておく)で、迷惑をかけたその相手のドライバーの安否が気がかりで仕方なかった。

 幸い、そのドライバーは衝突した際、踏ん張った結果、小指の骨折だけで済んだと聞き、まずは安心した次第。

 さっそく翌日、謝罪の電話を入れさせてもらうと、相手の方に親父の死、及び母の容態を心配されて、改めて、その気持ちのお礼と謝罪を繰り返し伝えた。

 ぶつかった後で親父の車は13メートル引き戻されたらしいと聞いた。翌日、遺体引き取りの際に車を見せてもらったが、それはそれはグシャグシャで悲惨なものであった。エアバッグの威力は絶大なものがあり、親父の場合、ステアリングシャフトが飛び出してきてしまってエアバッグは効果を発揮してるのだが、そのシャフトで胸を強打し、多発骨折による出血死というものだった。今後、メーカーにはステアリングシャフトが途中で衝撃を吸収するなり折れるなりの対策を望みたいものだ。

 その晩から、今度は親父の通夜、葬儀の話も進めなければならず、斎場のスケジュールなどを鑑み翌々日の29日が通夜、30日を葬儀と決定した。

 普通という言葉が適切かどうかわからないが、親父かおふくろかどっちかがいれば、連絡しなければならない知人とかが明確になるのだが、どっちもいないというのはこれまた困難な作業だった。

 しかし親父には悪いが、早いとこさっさとこっちを終わらせないと、戦ってるおふくろの面倒も見られないので、連絡も行き届かないつつも、何とか無事に葬儀を終えることが出来た。

 後でゆっくり読ませてもらうと言っていたので、例の“イラク本”も棺の中へ入れさせ

てもらった。

 足を運んでくれた方々、励ましてくれた方々、手伝ってくれた方々、メッセージ及び献花してくれた方々、多数、名前は全部あげきれませんが、この場を借りて深くお礼を言わせてもらいます。

 告別式を終えて数日後、今度は5時間という時間をかけて、おふくろの二度目の手術が行われた。

 右大腿骨の縦割れの部分をピンで留め、骨の中にパイプを埋め込み二本のスクリューで止め、膝上の欠けた部分は人工骨で補うという、それはそれはすごい手術であった。

 幸い、もしもと予告されていた感染症は発症しておらず、手術中の合併症も起こさず、スムーズに事は運んでいった。

 しかしオレにはまだ最大の問題が残されているのだった。再手術後、安定してきたのを見計らって、親父の死のことを告げねばならなかった。

 それまで、何度となく親父のことを聞かれたりもしていたのだが、違う病院で頑張ってるから早く自分も良くならなきゃダメだよと嘘をつき、あまり信じられても困るように適度に、お茶を濁していた。ひとりになったとき、もしかしたらと疑いを持たせるくらいの加減で徐々にそのときの覚悟を固めておいてもらうためだ。

 そして手術後、週明けの月曜日、いままでオレが生きてきた中で一番、辛く重い日がやってきた。

 病室を訪れると、ちょうど食事時にあたり、食事をさせ、うがいをさせ、薬を飲ませた後で、「実はね、おふくろ・・・」「親父は即死だったんだよ・・・」おふくろは静かに落ち着いて聞いてくれていた。

「そうでしょ、そうだと思った。」

「だってあのとき、もう息してなかったもの」

「・・・・・・・・・・・」

救急隊が手をつけられずレスキュー隊が車を引きはがしてるときに、元看護婦であるプロの目は、意識朦朧の重体の中でちゃんと親父を見届けていたのだった。

 しばしの会話を経て、関節リウマチと呼吸器系で苦しんでた親父の高齢者介護を覚悟してたオレでもあったが、「お父さんは、苦しまなかったし、幸せだったよね」と、さっそく生来の明るさを取り戻し、慰めの言葉を探していたオレに肩すかしを喰わせたのであった。

 そんなある日、ベッドサイドに腰を下ろしたオレにボソッとおふくろが呟いた。

 テキパキと世話をしてくれている看護士(オレはいまだに看護婦という呼び方のほうが良いと思う)さんが去った後、「わたし、あそこまでしてあげられてたかしら・・」

 オレは言葉を失ってしまった。自分がこんな重傷でベッドに横たわっているというのに、看護婦時代の自分を反省しているおふくろを前に、ナース魂を見るというか、改めておふくろの優しさに、思わず涙を流してしまうところだった。

 いま(12/7)は右手で字も書けるようになり、病室で退屈さに悲鳴をあげるくらいに元気になっている。

 来週にはリハビリで有名な近所の病院への転院の話をしに行くことが出来るようになった。

 いま家では埋葬せずにおいてある親父の遺骨が、おふくろが退院して帰宅するのを待っています。


 長文になってしまったが、これを避けては通れない。これを書かないことには、他のことなど書けやしない。

 あまりに気が重く、時間の余裕もなかったのでなかなかその気になれなかったが、やっと、ありのままを綴ってみることが出来た。

 本当にファンのみなさん、友人、知人、近所、親族のみんなに世話になり申し訳なく、そして感謝の気持ちでいっぱいです。

 再度、言わせてください。本当にありがとう・・・・・PANTA 

(2003年12月)

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